科学者・化学者・エンジニアとして


★ 本草学者・平賀鳩渓 ★

 「鳩渓」は、源内が本草学をやる時の名前です。
 本草学とは、単なる植物学ではなく、薬としての植物・動物・鉱物に関する学問です。中心はやはり植物でした。
 薬品会・物産会や源内焼・源内織については、プロデューサーとしての役割も大きく、
 エレキテルにしても、復元複製した後の行動は、興行師(プロデューサー)であると思います。
 源内の仕事は仕分けが難しいのですが、一応、両方に分類してあります。


12歳頃・・・「おみき天神」を作ったと言われています。
 かけ軸の菅原道真の絵に細工をして、盃を供えると顔が赤くなるしくみを作りました。
 和紙から赤が透けるシステムなので、ほんのり赤くなる感じでしょうか。
 完全にくり抜くと林檎のほっぺになってしまうので、そのへんのセンスもいいと思います。

13〜19歳頃
 三好某(嘉右衛門?)に本草学を習っていた説。久保桑閑に習っていた説。
 三好嘉右衛門は父の方という説、息子(源内より数歳年上)という説。色々。

19〜25歳
 藩主・松平頼恭の御薬坊主(スタートが22歳説もある)
 高松藩は殖産事業に力を入れていた。讃岐の三白といわれる「砂糖・塩・綿」の殖産に力を入れ始めたのもこの頃。
 源内は、さとうきびや朝鮮人参の研究と共に、一般的な本草学者としての薬草の整理もしていたと思われる。
 高松藩のさとうきび作りは、温暖な土地のおかげである程度の成功を納め、源内の死後であるが向山(さきやま)周慶が白砂糖の精製にも成功する。
 高松の白砂糖は和三盆と呼ばれ、現代でも高級品である。向山周慶の白砂糖精製に関しては、なんだか怪しい伝説が二つほど伝えられている。一つは、京都旅行中に火事に遭った薩摩藩士を助け、製法を教わったというもの。一つは、四国巡礼中の病気の薩摩藩士を助け、お礼に製法を教わったというもの。
 反対に、朝鮮人参は、日当たりの悪い場所の方が育つので、うまくいかなかったのでは?

 27歳
 長崎からの帰路、備後鞆之津(現・広島県福山市鞆町)で、鍛冶屋が使用する土を見て、これが良い焼物を作れる土だと見抜く。この土を探し、江ノ浦で発見。その土地の溝川某に窯を作ることを勧める。溝川氏はその土で陶器を作らせて儲け、源内を生き神として祀った。

 28歳
 源内焼を始めた?
 量程器(万歩計)、磁針器を製作。後者は木村季明の依頼で作り、納品している。
 量程器は、人に「作った」と自慢した形跡が無い。もしや、本人は失敗したと思っていたのでは?
 量程器・・・鎌田共済会郷土博物館蔵(香川県坂出市)

 〜30歳
 大坂で戸田旭山に医術・本草を学ぶ。旭山以外にも師がいたようだ。京都の薬屋で働いた説もある。
 この時期に、かなりの知識を蓄えたと言われている。本草学も花街も(笑)。

 30歳
 第一回薬品会。主催は田村元雄だが源内発案。場所は湯島『京屋』。
 この時は源内の出品は無し。全出品数180種。
 『京屋』は湯島天神参道近く、中坂の角地にあった。
 
 31歳
 第二回薬品会。神田にて。この時も会主は田村元雄。
 源内の出品は5。
 貫衆・琉球産(ヤブソテツ)/淫羊霍・漢産(イカリソウ)/白蘇(アオジソ)/玻瑰花(ハマナス)/黄花木綿(キワタ)。(漢字は現代表記)
 全出品数231種。

 32歳
 源内初主催で物産会。湯島『京屋』にて。
 全213種。源内は50種。田村藍水がスランカステンを出品。
 目黒の高松藩下屋敷の薬草園の整備・整理などを始める。

 33歳
 紀州で貝の収集、整理。衆鱗図譜その他に協力したと思われる。ただし詳細不明。

 34歳
 伊豆で芒硝を発見、採取。芒硝は、たんのう炎、胆石症、通風、糖尿病等に効果がある。
 この年から長崎屋にも参加と思われる。スランガステインを蘭館医バウエルに確認してもらう。
 スランガステインと引換えに、数カ月後、スヴェールツ『紅毛花譜』ゲット。
 スランガステインは竜石とも呼ばれ、吸毒効果があると言われる。

 35歳
 第五回東都薬品会。

 36歳
  『物類品隲』刊行。全六巻の博物学辞典。
 水部/土部/金部/玉部/石部/草部/穀部/菜部/果部/木部/蟲部/鱗部/獣部と分類されている。
 4巻までが辞典で、5巻が図鑑(図録)、6巻が朝鮮人参と甘蔗(さとうきび)の栽培法・採取法になっている。
 
 37歳〜
 秩父で石綿発見。火浣布作成。
 東都薬品会で接触があったと思われる秩父の富豪・中島利兵衛と、火浣布の製作・研究に取り組む。
 蔵を包むような大型サイズを作るべく研究したが、それは無理だった。ただし、現存するのは香敷程度のかなり小さい物だが、研究中はてぬぐい位の物は出来たらしい。

 38歳
 『火浣布略説』刊行。この時はまだ香敷程度を作って風呂敷広げている段階。
 春信の錦絵製作にアイデアを出した説あり。

 39歳
 中津川の金山開発開始。火浣布と石綿に見切りをつけた頃に、同地域で金山事業に着手する。最初は、水抜き工事ができれば金が取れると目算した模様。
 源内に泣きボクロが二つあったことや、足袋のサイズなどは、秩父の者が記述した事である。足袋のサイズがわかると、当時では長身の人だったと推測できる。ちなみに、足袋は足にぴたりと履く物なので、靴サイズを考える時は1センチくらい割り増す。
 

 41歳
 寒暖計製作。ただし、現物は残っていない。設計図のような説明書と、20個作ったという記述が残るのみ。

 44歳
 『陶器工夫書』(天草に行っている)執筆。
 長崎で、オランダ通詞・西善三郎の遺族から壊れたエレキテルを受け取る。
 帰途、大坂に暫く滞在。銀銅山の水抜き工事。
 源内織り。長崎で手に入れた(最初の長崎か今回か不明)羊を、故郷で育てていたらしい。羊毛を大坂で織らせてラシャを作っている。

 46歳
 秋田で鉱山開発。亜鉛の精錬を試みる。小田野直武を『解体新書』の絵師として仲介。

 49歳
 エレキテルを作る。
 現存する源内が作ったエレキテルは二台だけ。志度(平賀源内先生遺品館)と東京(逓信総合博物館/但し展示品は複製品)にあります。
 皆様がよく知る白くて花の絵のやつは、逓信博物館蔵のもの。国重要文化財。これは営業用(見世物用)に作ったと言われています。かなり大きいもので、二段組のカラーボックス位あります。
 志度のものは塗りのない白木です。こちらが先に作られたと言われます。
 両方、「日本の」松の木でできています。
 「修復」か「復元」か。この点が源内研究で意見が別れるのを目にします。
 少なくても、現存する二台は完全に「復元」です。機械ですから、復元するには仕組みがわかってないと無理です。本によっては、源内が仕組みを理解していなかった(壊れていた部分を直したら使用できるようになった)表記がありますが、私は違うと思います。


目次へ戻る

HOME


inserted by FC2 system