源内先生のお仕事。


 ざっと、やったことを知りたい皆様のために その2 年表付きでどうぞ。

平賀源内
1728?〜1779 高松藩の蔵番・白石家の三男として讃岐国志度に生まれる。(生まれ年は逆算による予想たそうです)
源内は俗名。諱は「国倫(くにとも)」、字は「士彝(しい)」。物産学では「鳩渓(きゅうけい)」を名乗る。
俳句では「李山(りざん)」、戯作では「風来山人」(その他にも「天竺浪人」「紙鳶堂風来」など使用。紙鳶は凧のこと)、浄瑠璃作者としては「福内鬼外」と、名前を使い分けた。

13〜19歳頃 三好某(嘉右衛門?)に本草学を習い、高松藩儒・菊地黄山に儒学を学ぶ。
1746 19歳 藩主・松平頼恭の御薬坊主に召し抱え?(22歳説もある)
1749 22歳 父が没し、家督相続(兄達は既に没)、平賀性を名乗る。
1752 25歳 1回目の長崎。一年滞在。
1754 27歳 藩務退役。妹・りよに婿を取らせ家督を譲る。
<この間に、大坂で戸田旭山に医術・本草を学ぶ。量程器(万歩計)、磁針器を作る。源内焼開始?。
 俳句同人誌『有馬紀行』刊行。江戸に出て、田村元雄(藍水)に入門>
1757 30歳 6月 林家に入門、湯島聖堂に寄宿。7月 第一回薬品会。主催は田村元雄だが源内発案。
1759 32歳 8月 源内初主催で物産会
1760 33歳 前年高松藩に呼び戻され、この年に藩主頼恭と共に帰省。衆鱗図譜その他に協力。
1761 34歳 2月高松藩へ辞職願提出。9月江戸にて頼恭から”お構い”付きで辞職受理される。秋〜12月芒硝を発見、採取。
1762 35歳 第五回東都薬品会。『紀州物産志』
1763 36歳 『物類品隲』『根南志具佐』『風流志道軒伝』
1764 37歳 秩父で石綿発見。火浣布作成。
1765 38歳 『火浣布略説』。春信の錦絵製作にアイデアを出す。
1766 39歳 秩父中津川金山事業着手。
1767 40歳 大田南畝『寝惚先生』序。『長枕褥合戦(ひとねかつせん)
1768 41歳 寒暖計製作。『痿陰(なゆまら)隠逸伝』『菊の園』『三の朝』
1769 42歳 『根無し草後編』。『物産書目』。中津川金山休山。この年に長崎へ発ったという説もある。
1770 43歳 1月『神霊矢口渡』。10月に長崎へ。
1771 44歳 『陶器工夫書』(天草に行っている)。長崎滞在中に、『西洋婦人図』?。壊れたエレキテル貰い受ける。帰途、大坂に暫く滞在。銀銅山の水抜き工事。源内織り。
1772 45歳 江戸では火事で平賀邸焼失。秋、大坂から江戸着。
1773 46歳 秋田で鉱山開発。亜鉛の精錬を試みる。藩主・佐竹曙山と藩士・小田野直武に西洋画を教える。直武を『解体新書』の絵師として仲介。
1774 47歳 秩父鉱山開発失敗。『放屁論』。金唐革紙の製作開始。
1775 48歳 荒川通船工事で木炭の江戸積み出し。神田大和町に住む。
1776 49歳 エレキテルを作る。『力婦伝』『天狗髑髏鑑定縁起』。菅原(源内)櫛。
1777 50歳 『放屁論論後編』。
1778 51歳 『菩提樹の弁』『飛た噂の評』。
1779 52歳 『金の生木』。門人を過失で殺傷、獄中で没。
1780      玄白、墓碑銘を草す。

執筆作品は主なもののみ挙げています。他に、友人の著作の序なども多く有ります。
絵については日本初の油彩『西洋婦人図』のみ挙げましたが、本草関係の書や戯作の表紙・挿絵なども描いています。エレキテルや量程器、源内焼のデザインも源内のものと言われています。


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